うっす

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#1 『ウィトゲンシュタイン全集 5』

職場の先輩と本の話になった。フォークナーよく読んでたと聞いて、僕にも会社に居場所があってよかったと思った。セリーヌ読んだことないの?という話になったが、恥ずかしながら、というわけでその話は終わった。

設計書以外で何かを書くのは久しぶりで、そういうときは毎回書き出しに悩む。大学のころにブログを続けていた時期があったけど、一番時間がかかったのがこの書き出しだった。一行書くのに一日悩め、ということをよく言われた時期もあったけど、ブログのエントリの書き出しで悩むのはあまり建設的でないと思う。

本の書き出しとかを参考にしたり、ゲームの冒頭一行を抜き出したのをひたすら収集したりした。で、今日もネタ探しで小説を開いたりしたのだけど、たまたま開いたものが、そのセリーヌ『夜の果てへの旅』を引用していた、ので、今日はとりあえずそれにならう。

それに第一、これはだれにだってできることだ。 目を閉じさえすればよい。 すると人生の向こう側だ。

何年かおきに読み返す文章というものがあって、そういうのは意外と、もう見たくない顔とか目を背けたい状況とかのすぐ隣にあったりするけど(今もそう!)、今日読んだ『ウィトゲンシュタイン全集 5』の「倫理学講話」も、結果的にはそういうものになっている。

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話
ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話 ウィトゲンシュタイン 黒崎 宏

大修館書店 1976-01

倫理学講話」については、ページにして10くらいの公演で、ネットで和訳されたものが全文読める。

「よい」という言葉について、相対的に「よい」ということと、絶対的に「よい」ということの、2つの異なった使用の方法がある、ということが述べられる。 このうち、相対的によいというのは、あらかじめ決まっている目的に役立つ、ということであり、あらかじめ目的が決まっている限りにおいてのみ意味をもつ。 たとえば、「この設計はよい」、と言ったとき、それは、これこれの機能を実現するためにある種の記述可能な便利さがある、とか、ある目的との相関関係で正しい方法である、といったことになる。

このような用法において、「よい」という言葉の使用は、「困難なあるいは深遠な問題を提起」しない。それゆえ、倫理学が「よい」という言葉をつかうとき、それはこの相対的な意味における「よい」ではない。相対的な価値判断はどれも、単なる事実の記述に還元でき、したがって、正確に言えば、価値判断ではないからだ。 一方で、「倫理的価値判断」と呼びたくなるようなものについては、かりに事実というものが成立している事態であり、その総体が世界であるとしたら、その世界には属さないような類のものだ。

皆様方のどなたかが全知の人間であり、したがって、この世界の全生物または無生物のあらゆる動きをご存知であり、また、およそこの世にある全人間のあらゆる精神状態をご存知である、と仮定し、また、この人が自分の知っていることのすべてを大きな一冊の本に書いたと仮定すると、この本は世界の完全な記述を含むことになるでしょう---そして、私が言いたいのは、この書はわれわれが倫理的判断と呼ぶと思われるもの、あるいは何かこのような判断を論理的に含むと思われるものは一切含まないであろう、ということであります。

相対的に記述しうるあらゆる事実は、いわば同じ次元にあり、全命題についても同次元上にある。その意味で、崇高な、あるいは瑣末な命題というのは存在しない。 では、絶対的な、あるいは事実に還元できないところのそのものというのは……?

「唯一の絶対に正しい道」という表現があったとする。それは、誰もがそれを見ると論理的必然性をもって行かねばならないか、あるいは行かないことを恥じる道であろう、と考える。それと同様に、絶対的善とは、それが記述可能であれば、自分の状態とは独立に、誰もが必然的に生み出すようなことであろう。だが、このような状態は幻想である、と言う。というのは、それがいかなる状態であっても、ほかの事柄とは独立に、絶対的な強制力というものはないからだ。ただ、「唯一の絶対に正しい道」という表現をもって、何か伝えたくなるような、ただ何も伝えていたことになっていないような、そういった状況は、ある。

たとえば、「私は世界の存在に驚く」、というような表現。これは、端的に言って言葉の誤用である。というのは、「~であることについて驚く」というような表現は、そうでないという状態が想像できるような場合にのみ意味をもつからだ。空が青くて驚く、という言葉は意味を持つ。それは、曇っている場合の反対の状態が想像可能である限りにおいてである。一方、「私は世界の存在に驚く」というのは、恒真式に驚いているということになってしまい、まさに誤用、無意味でしかない。

ウィトゲンシュタインは、すべての倫理的・宗教的言語においては、それが倫理的・宗教的である限り、このようなある種の特有の誤用がある、と述べる。それは、成立している事柄の相対として世界を見る見方ではなく、「世界を奇跡としてみる経験」である、という言い方で表している。

「私は世界の存在に驚く」という言葉がまさに無意味なのは、それが言おうとしている正しい論理的分析をまだ持ちえていないからに過ぎない、という主張があったとする。

さて、私に向かってこのように主張されれば、(中略)つぎのことがはっきりとわかります---すなわち、私が考え得るいかなる記述も私のいう絶対的価値の記述には役立たないばかりでなく、かりに誰かが提案することのできる有意義な記述があるとしたら、私はそのような記述はどれも、最初から、その有意義性を根拠にして拒否するであろう、ということであります。

このような無意味な表現の本質は、ほかならぬそれの無意味さであり、それらの表現を使って、真なる言明のみで構成された「世界」を越え出てゆくこと、これがおよそ倫理とか宗教について語る人の傾向である、と言う。それは言語の限界(=世界の限界)にさからって進むことであり、まったく望みのない欲求である。そして、その限りにおいて、倫理や宗教といったものは科学ではありえない。それらが語ることはいかなる意味においても何か知識を増やすものではない。

しかし、それは人間の精神に潜む傾向をしるした文書であり、私はこの傾向に深く敬意を払わざるを得ませんし、また、生涯にわたって、私あそれをあざけるようなことはしないでしょう。

余談だが、坂口安吾の「文学のふるさと」とひきつけて誤読したりすることもあった。アモラルなものに突き放される感じとか、あるいは氷とか海とかを抱きしめたような切なさみたいもなのが、語りきれないものにたいして何かを言おうとしているような感じがして好きだった。