うっす

コピペで日給2万円稼いだYoutuberが反則的な投資方法を限定公開

#2 『わたくし率 イン 歯ー または世界』

今週は忘年会ウィークで、日ごろの業務に加え、ならではの「仕事」もいろいろ蓄積している。

なんとなくノリで引き受けたはいいものの、いざとなると、仕込みやらなにやらでやることが多かったりして、意外とガンバラなきゃいけないようで、焦る。

わたくし率 イン 歯ー、または世界
わたくし率 イン 歯ー、または世界 川上 未映子

講談社 (2010/7/15)

人は結構簡単に自分の信念とか、意味づけとか、世界そのものとか、そういったものごとを「決める」ことができて、それは次のような方法による:

1.自分の感覚によって捉えられたもののみを、私はこれが存在している、と言うことができる。

2.存在しているものの総和が世界である。

3.ゆえに、私の感覚によって捉えられたもの以外は世界に存在しない。

飛躍がある。けれども、それゆえに、容易くこれを実践する。この本の大半の部分は、「わたし」が恋人に宛てた手紙、まだ産まれることがないわたしの子供に宛てた手紙、という形で成り立っている。

脳のあらへん状態で・私が存在したことが・この今まで一度もないのであって・脳がないなら私はいないと・そういうことは云いたくはなるけれど脳があるかぎり誰にも証明することができません・そやので私というものは・脳とは関係ないかも知れませんしもしかしたらやっぱり関係あるのやも知れませんけれども・人がどこ部で考えてるんかということが・もちろんそれが脳であってもまったくぜんぜん何も問題ないんですけど・脳なしで考えたことがない以上は・私はかかとで考えてるのかも知れへんし・肩甲骨で考えてるんかも知れへんし・もしかしたらベタに目玉で考えてるのやも知れませんし・でもってそれらのどれもが欠けたことがないのであってこれはじっさい、大変やあ・ほかにも細胞のいっこいっこが考えてそれがどっかに集合してるというような手もあるけれども・いったいどこ部に集合しているの・これはこれで大変やあ・これはすべて並列な可能性・なので私は・鏡の奥に映して見える・鏡の奥に映せば見える・この奥歯を私であると決めたのです

脳が私である、とか、この心臓が私である、と言うのと全く同じような意味で、奥歯が私であると決めてしまった「わたし」は不幸だった。脳とか心臓とかのほうがより確からしく、理論だっていて、証拠もあるとかないとか、そんな話とは違う水準で、不幸だった。

わたしが何であるかというのは、わたしの生の問題であって、生の問題というのは、問題の消失によってしか気づかない。そして、この「わたし」は、それに気付くことはない。なぜなら、「わたし」が手紙しか書かないから、それも、誰にも読まれることのない。青木との間の子供は産まれておらず、また、産まれえない存在で、というのは、宛て人の恋人「青木」も実は恋人ではなく、「わたし」が中学生のころに一度話したたことしかない、青木にとっては全く記憶にすらない、関係にすぎなかったからである。

それゆえ、宛名のない手紙は「わたし」以外の誰にも読まれることはない。「わたし」の言葉の使用は、独語と同じで、こう言ってよければ、結果的には、誰かに何かを伝えていない。

あるとき、青木は「わたし」の勤める歯科医院に来て、治療をして帰って行く。長らく青木と会っていなかった〈わたし〉は、三年子の制止を振り切って、青木のアパートへ。

そこには呆気にとられた青木と、その彼女。「わたし」、興奮してまくし立て(ここは必見)、

(中略)人間が、一人称が、何でできてるかゆうてみい、一人称はなあ、あんたらなにげに使うてるけどなこれはどえらいもんなんや、おっとろしいほど終りがのうて孤独すぎるもんなんや、(中略)わたしと私をなんでかこの体、この点、この現在に一緒ごたに成立させておるこのわたくし!ああこの形而上が私であって形而下がわたしであるのなら、つまりここ!!この形而上学であるとこのこのわたくし!!このこれのなんやかや! あんたらに人間の死亡率うんぬんにうっわあうっわあびびるまえに人間のわたくし率百パーセントであるこのすごさ!(中略)

「っていうか何やねんこのブスは」

気がつくと、女が奥から出てきて目のまえにたっていて、わたしを見下ろしてこのようにはき捨てました。

結末は、歯科医に通院する幼女と、母の場面になる。幼女の痛みを気遣う歯科医と、娘に永久歯が生えてこないことを心配する母。母は歯が生えてこないと大変なことになるとつぶやき、それをかろうじて捉えた歯科医は、誰だって同じだよと思ったが聞こえないふりをする。

「わたし」は、手紙をもう書かないんだろうな、と思った。

今日は何の日

アトラク=ナクア20周年ということです。おめでとうございます!